総合診療医がなぜ求められるか

今日の日本の医療

医療の進歩は人間の質の高い命を支える。子供たちの、若者の、大人たちの、高齢者の笑顔を家庭にもたらす。それゆえに、誰もが医療の進歩を願わないものはいない。医療が進歩していない国々に行けば、医療の進歩していないことの辛さ、口惜しさを実感し、医療のありがたさを認知できるであろう。筆者はいくつかの発展途上国においてそれを実感した。日本の医療にはいくつかの問題があるにしろ、我々は日本の医療が進歩していることに感謝したい。

医療の進歩は、医療の分化を推し進める。例えば医療の進歩に応じて、「すべての医師が心臓カテーテル検査を実施できる、すべての医師が脳外科の手術ができるべきである」とするのは無理がある。そこで、一人の医師がカバーする範囲は狭まり、またその分野での深さが増す。このように対象を狭めることによって、より詳細できめの細かい、それゆえ効果的な診断や治療が可能になった。極端な例ではあるが、CTスキャンが国に2台しかない国があり、そこでは分化した医療(*)を受けるために他国に行くか、多くの場合は、それを享受する可能性すら知らずに、命を失っていく。日本にこのような分化した医療を対象とする医師がたくさんいること、そのための施設・設備が国内にたくさんあることに我々は感謝したい。

(*五十嵐は、家庭医が家庭医療の専門家であるという立場から、分化した医療を対象としている医師らを、専門医と呼ばずに分化医と呼んでいる。ここでもこのような分化した医療を対象としている医師を「分化医」と呼びたい。)

また、医療が進歩した国においても、その進歩した医療に人々がアクセスできない場合もある。たとえば経済的に裕福でないと医療の恩恵にあずかれない国が実際に存在する。健康に自信があり、それゆえ健康保険に加入しなかった若者が一度病気になったときに味わう口惜しさは断腸の思いであろう。実際、筆者が総合診療(Family Medicine)の研修を受けた先進国においても、このような状況が垣間見られた。この点でも、国民皆保険制度を堅持している日本の医療制度に感謝したい。

日本は、平均寿命の長さが常にトップクラスにある健康優良国である。このことにも我々は感謝しなくてはならない。われわれの周りには多くの高齢者がいるが、どこの国でもそのような環境があるわけではない。実際、経済的に進歩した国においても、平均寿命が低い国も存在している。これは、日本の医療の優越性のみでは説明できず、日本人の独特の食習慣、国民の誠実さ勤勉さ、水の十分な供給なども深く関与していると思われる。

このように健康に恵まれた日本に習おうと、多くの発展途上国や先進国さえも日本に関心を寄せている。

今の日本の医療の問題

上記で述べたように今日の日本の医療は決して劣っているとはいえない。にもかかわらず、日本の国民は今の日本の医療に満足していないといわれる。そして、自分たちが世界で最も不健康な国民と思っている報告すらある。

地域では医師不足が深刻化している。救急外来で受診が断られる、慢性的に入院病床が確保しにくい、医療を必要としている高齢者の居場所が無い…。患者さんが医療機関に行くと、多くの患者の列、その奥に疲れ切った医師の顔、患者さん一人に割ける診察時間は短くなっていく…。しかも都市から離れれば離れるほど、さらに医師数が極端に減っていく…。日本の医療はアクセスが担保されているにもかかわらず、どうしてこのような状態になっているのだろう。実際には日本の医師数は年々増加しているのになぜこのようなことが起こるのだろうか。

だいたい、日本人はなんでこんなに頻繁に医療機関に通うのか。なんでこんなに頻繁に検査や画像がオーダーされるのか。そしてなんでこんなに多くの薬を内服しているのか。最も不健康な国民と思うのも無理はない。

前述したように、医療の進歩は多くの恩恵を人々にもたらしている。しかし、一方で、医療の分化は、一人の医師の患者について見えている範囲が狭まってきている。眼球が鼻の隣にあっても、腎臓が消化管に接していても、おのおのの臓器を対象としている分化医は、その隣の臓器の異常について、診断や治療の対象と思わないことも少なくない。というか、分化医は自分のわからない症状=自分の対象ではない、と思っているかのように他の診療科の医師への受診を勧める。そして、患者さんはフリーアクセスの恩恵を最大限に生かして、患者さん自身が最適と考える診療科の医師を訪れる。疾患ごとに違う医師を訪れることもある。その患者さんが選択した診療科は必ずしもその症状を診察するのに適しているとは限らない。

そう、患者さんは、医師とはまったく違った知識で症状や医療上の問題を認知していることが少なくない。それゆえに診療を受けに来る患者さんは、時に医師には理解しにくい世界で問題解決を希望する場合もある。医療の世界では明らかに患者さんに有益と思えることでも、患者さんにとっては必ずしも納得できるとは限らず、医師が最良と思い提示したすべての診断方法・すべての治療方法に患者さんが受け入れるとは限らない。このような患者さんの訴えや態度は、医師はあまり好まないことも多い。これは、分化医でも、そうでない医師にとっても起こりうることである。どちらかといえば分化医は、患者さんが理解できるかどうかよりも、疾患の診断や治療に関心をもつことも多く、患者さんの期待には添えないか、またはこのような患者さんに陰性感情を持つことも多いかもしれない。「なんだかよくわからないが、どうも僕の専門ではなさそうだから、ほかに行ってくれない?」といった言葉とともに。

さらに患者さんは、情報をたくさんもつようになるに従って、その情報がさらに歪められ、不安を惹起するようなものになっている可能性もある。マスメディアを通じて提供される多くの健康に関わる情報も、必ずしも正しいものばかりとはいえないこともある。時にとてもまれな症例であるにもかかわらずどこでも起こっているように報道される情報もある。これらによって患者さんのなかには不必要な不安が惹起されている可能性もある。また、インターネットや出版物によって「よい医療機関」、「よい医師」の情報が流されるが、これらの評価基準の信頼性はどうであろうか。患者さんは、これらの情報によって、よくあるコモンな症状にもかかわらず「よい医師」として紹介された分化医の門を叩くかもしれない。さらに、「失敗もまったくなく、必ずよい結果を生み出すスーパー名医がいる」などの報道もみられる。このような患者さんの期待はいずれ崩壊することが目にみえている。こうして、多くの患者さんが医療に対して不信、不満を抱くこととなるかもしれない。

さらに、多くの医師にかかるがゆえに、誰がいったい責任を持って、すべての情報をまとめるか、わからない。医師同士の連携はまだましな方で、他の職種の医療従事者との連携はさらに混沌としている。そのもっとも顕著なのが在宅医療。患者さんの話からは、訪問看護師がああ言った、薬剤師がこう言った、ケアマネージャがそう言ったというのだが、いったい、どう言ったのか?多職種連携が十分になされていない。

今、総合診療医がすべきこと

以上の問題を解決するひとつの方略を与えるものが総合診療であると私は信じている。

包括的医療を実践する総合診療医であれば、患者さんの訴えの多くに対応できるであろう。また健康なうちから予防活動もできる。また、必要に応じて効率的に分化医に患者さんを紹介することもある。関係する多職種医療従事者と連携取れる。患者さんの心理社会的な背景を認識して患者さんの世界を勘案しながら医療を行うのが総合診療医であり、それゆえに患者さんの納得が得られうる。このような総合診療医が、地域のそこここの診療所や病院にいたらば、今の医療はどのように変化するであろうか。

患者さんは、患者のニーズを満たしてくれる総合診療医のところにまず訪れるに違いない。よくある疾患に対応でき、いろいろな人たちと連携し、たとえ患者さん自身の世界での問題であろうと、その問題を解決できる医師のところに最初に行くことになると思う。

そのような医師が、歪められた医療情報の誤りを指摘すれば説得力もあるかもしれない。顔なじみとなれば、不要な入院や防衛的な入院も減るかもしれない。総合診療医が最初に診れば救急外来への受診も減少するかもしれない。患者さんが入院から在宅医療への移行するときもスムーズになるだろう。総合診療医が予防に力を入れれば効果があがるかもしれない。そして、必要なときに的確に分化医に紹介する医師であれば、患者さんも安心して「まず総合診療医を」受診しようとするであろう。それゆえに分化医への適切な患者の流れができる。それゆえ分化医に余裕ができる。

このような総合診療医に自由にアクセスできることは、患者さんに安心をもたらすに違いない。こうして、よりよい総合診療医が多くなると思う。総合診療先進国では、実際に総合診療医の存在によってこのような状況が実現しつつある。今、人々が「総合診療医に求められていること」は、人々に接するプライマリ・ケアに従事する医師がこの総合診療医にできるだけ近づくこと、総合診療医をできるだけ多く養成すること、その結果、日本全国の人々に総合診療を提供できることと私は思う。

 

(竹村洋典. 提言 家庭医がなぜ求められるのか. In日本家庭医療学会編. 新家庭医プライマリ・ケア医入門、2010を改変)