東海地方における今年の梅雨入りは5月28日で例年に比べ10日ほど早かったそうですが、いざ始まってみると空梅雨のようでなかなか雨が降りません。6月も中旬を過ぎてようやく少し雨が降りましたが、津市の安濃ダムの水位は元に戻らず渇水被害が心配されています。今年の梅雨は一体どうなるのでしょうか。

そこで東海地方における過去の梅雨の状況を調べてみました。図1は、東海地方における2000年以降の梅雨入りと梅雨明け日の一覧です。平年では梅雨入りが6月8日、梅雨明けが7月20日頃ですので、確かに今年の梅雨入りは10日ほど早く、過去2番目に早い記録となります。グラフをみていますと梅雨入りが早ければ梅雨明けも早い傾向にあるようですが、なかには2009年のように梅雨入りは早かったのに梅雨明けは遅くて8月に入ってからという年もありました。梅雨入りが同じ日であった2008年の梅雨明けは7月12日でしたので、今年もその頃でしょうか。図2には、津市における6月と7月の降雨量の年次推移を示します。雨の多かった年も少なかった年もあり、何が降雨量に関連するのか少し調べてみました。余りはっきりした関連性を示すものは分かりませんでしたが、どうやら梅雨の期間が長ければ降雨量が多くなる傾向にあるようです(図3)。当たり前と云えば当たり前ですが、空梅雨で雨の降らないまま梅雨が長引くということはないようです。ちなみに東海地区の梅雨の平均期間は約43日です。

そんな中、今年も我が家のアヤメは見事な花を咲かせてくれました。5月下旬から6月にかけての梅雨空に、あるいは梅雨の晴れ間の青空の下、目に鮮やかな濃紺の花です。垂直に伸びた緑の茎の先端に黒蝶の羽を重ねたような優雅な花は、賑々しい初夏の庭に鋭いアクセントを与えてくれます。よく見るとアヤメの花の構造は複雑です。横から眺めますと、上、中、下3枚ずつ計9枚の花びらから成り立っているように見えます。しかし実は全てが花弁ではありません。一番下で垂れ下がるように開いている大きな3枚の花びらは外花被片と呼ばれ萼(がく)に相当します。その基部には豹紋のような網目模様(文目・あやめ)があり、これがアヤメの名の由来となっています。この文目模様の部分を密標と呼び、虫を惹きつける役割をします。一方、一番上で垂直に立っている3枚は内花被片と云って花弁に相当し、遠くの虫からでも見えるように直立しているとのことです。ところで雌しべや雄しべはどこにあるのでしょうか。驚くことに真ん中の層の3枚、ちょうど文目模様の密標に覆いかぶさるようにしているのが雌しべの一部である花柱なのです。花柱とは雌しべの先端(柱頭)と基部(子房)とを結ぶ中間部で通常は棒状ですが、アヤメでは花びらのような形をし、しかも内外の花被片と同じ色をしていますので、とても雌しべとは思えません。雌しべは3本あるように見えますが実は基部は同一で、1本の雌しべから花柱が120度ずつ3枚に分かれているのです。この花柱の裏側をよく見ますと、1本の雄しべがピッタリ張り付いています。花柱と雄しべの位置関係を分かりやすくするために、両者の間にマッチ棒を入れて撮影しました。雄しべの先端には葯(やく)がついていますが、その外側に位置する花柱のギザギザした部分が柱頭で、ここで受粉が行われます。密標に惹きつけられ花柱の下側へ潜り込んできた虫の背中は、最初に柱頭に触れ次に葯に触れます。他の花の花粉を背中につけていると、柱頭に触れることにより受粉が行われ、さらに深く潜り込むことにより、この花の花粉を背中につけて他の花へ向けて飛び去って行くことになります。ここにも自家受粉を防ぐ工夫がなされています。なるほど、うまくできているものですね。


 

アヤメの花の構造

アヤメの花の葯(おしべ)と
柱頭(めしべ)

花柱(めしべ)とおしべの間にマッチ棒を挟んで撮影

我が家の花ショウブ。
密標が黄色の模様です。

アヤメとよく似ていて区別の難しい花に、花ショウブ(ノハナショウブ)とカキツバタがあります。いずれもアヤメ科アヤメ属の植物で、外観は非常によく似ています。その区別の仕方は、いろいろ記されていますが、何度覚えてもすぐ忘れてしまいます。それで本稿では最も重要なもの一つだけに絞って覚えることにします。それは、外花被片の基部の模様、すなわち密標の模様の違いです。アヤメは文目模様、花ショウブは黄色の筋、カキツバタは白い筋です。私は「文目(あやめ)、黄しょうぶ、白つばた(アヤメ、キショウブ、シロツバタ)」と覚えることにしています。これだけ覚えておけば十分です。またアヤメは乾地、カキツバタは湿地、花ショウブはその中間の地帯に育ちます。
今でも菖蒲湯に使われるショウブ(菖蒲)はサトイモ科に属する芳香性の植物で、葉姿がアヤメに似ているものですから古くからアヤメと混同されて来ましたが、アヤメとは全く異なる植物です。菖蒲という漢字を‘あやめ’と読むことも、混乱を大きくしているのでしょう。

アヤメ、カキツバタ、花ショウブの密標の模様

カキツバタ、花ショウブ、アヤメの生育場所

菖蒲(ショウブ)

いずれ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)

この言葉は「太平記」に記されている源頼政の次の歌に由来するものです。

五月雨に 沢辺の真薦 水越えて いづれ菖蒲と 引きぞ煩ふ

(降り続く五月雨に沢辺の水かさが増し、真薦(まこも)も水中に隠れてどれが菖蒲(あやめ)か分からず、引き抜くのをためらっている)
真薦(まこも):沼地に群生するイネ科の多年草

源頼政が鵺(ぬえ)と呼ばれる妖怪を退治した褒美として、鳥羽院から菖蒲(あやめ)前という美女を賜る際に12人の美女の中から選び出すように言われ、余りの美人揃いのため選び兼ねて詠んだ歌だそうで、いずれも優れていて優劣をつけ難いことを云います。ところで源頼政(1104年~1180年)という武将をご存知ですか。平安時代末期に生きた源氏の武士であり歌人としても名を馳せた人です。保元の乱(1156年)では後白河方の源義朝について戦い、義朝の起こした平治の乱(1159年)では平清盛の味方をして戦いました。そのため清盛の世になってからも源氏の長老として重要な地位を与えられ、75歳になって従三位に叙せられました。ところがその後の平家の横暴を見兼ねた頼政は、以仁王と組んで打倒平家を企て挙兵しようとします(以仁王の挙兵)。しかし事前に発覚し、平家軍との宇治川での戦いに破れ平等院で自害しました。享年77歳でしたが、75歳を過ぎても時の権力に立ち向かおうとする気力や活力は、凄いですね。

また頼政は鵺を退治した人物としても有名で、その伝説は太平記以外にもいろいろな書物において記されていて、平家物語では次のように描かれております。

鵺(筆者の想像によるものです)

仁平時代の頃、近衛天皇が御在位の時、毎夜毎夜おびえられたことがありました。毎晩、丑の刻(午前2時頃)に東三条の森の方から、ひとかたまりの黒雲がやってきて御殿の屋根の上を覆うと、必ず怯えられたのです。そこでその警備を命じられたのが頼政でした。頼政は遠江国の住人猪(い)早太を伴って警備に当たっていますと、噂通りその時刻に、東三条の森の方から、ひとかたまりの黒雲がやってきて、御殿の上にたなびいたのです。頼政はこれをキッと見上げたところ、雲の中に怪しい物の姿がありました。「もし射損じたならば、生きてはおれない」と思いながら、矢を取り出し弓につがえ、南無八幡大菩薩と心の中で祈念し、きりりと引き絞り、ヒョッと放ったのです。手ごたえが感じられピシッと当たりました。「やったぞ、おう」と、矢叫びをしました。猪早太がさっと近づき、怪物が落ちてくるところを取り押さえ、続けさまに九回も刀を刺したのでした。その時この怪物をご覧になると、頭は猿、胴体は狸で、尾は蛇、手足はまるで虎のようであり、鳴く声は鵺に似ていました。恐ろしいなんてものではありませんでした。天皇は大いに感激され、獅子王という御剣を頼政に下されました。
(この訳は、原帖:流布本 元和九年本 荒山慶一氏  現代語訳 木村 暉氏の版より抜粋し改変しました)

この鵺という妖怪、水木しげるの漫画にも登場し、若い人達の中には馴染みのある人もいるのではないでしょうか。横溝正史原作の映画『悪霊島』では「鵺の鳴く夜は恐ろしい」というキャッチコピーで有名になりました。鵺とは文字通り夜に鳴く鳥のことで、古くは「万葉集」にも「ヌエドリ」として登場するそうですが、その寂しげな鳴き声は平安時代の人々に不吉なものとして聞こえ、凶鳥として恐れられたとのことです。天皇や貴族たちは鳴き声が聞こえるや否や大事が起こらないように祈祷したそうです。現在ではこの鳥の正体はトラツグミであると云われています。トラツグミは、黒と黄色のトラのような模様をしたツグミの仲間で、夏は山で過ごし冬は平地で生活する漂鳥です。鳴き声は「ヒュー」「ヒュー」と寂しい口笛のように聞こえます。確かに夜中にこの声を聞くと、不気味な感じがするかも知れません。YouTubeなどで一度お聞き下さい。

トラツグミ

カキツバタというと思い起こすのが、学生時代に教科書で見たことのある尾形光琳の「燕子花(カキツバタ)図」ですね。東京の根津美術館に所蔵されている六曲一隻の屏風絵で、国宝に指定されています。金地の背景に、単純化された濃紺の燕子花の花と緑の葉や茎とが美しいコントラストを形成しています。構図に工夫が凝らされているからでしょうか、平面的に描かれているのに三次元的な奥行を感じます。ひとかたまりの燕子花の群を一つずつ目で追って行きますと、花の数や配置にリズミカルな変化があり、見る人に音楽が聞こえて来るかのような楽しさを感じさせます。私は以前よりゴッホの絵「アイリス」は光琳の「燕子花図」に似ていて何らかの影響を受けているのではないかと思っていましたが、光琳の装飾画的な画法の影響を最も強く受けたのは、ゴッホよりも少し後の画家達、特にオーストリアの画家クリムト(1862年-1918年)でした。クリムトも金地を背景にした装飾的な絵画を幾つも描いています。

確か教科書で観た燕子花の絵には橋もあったのではないかと思い、探して見ましたところありました。メトロポリタン美術館に所蔵されている「八橋図」です。燕子花の群生の間を、屈曲した木の橋が画面の左下から右上にかかっています。この八橋図は、伊勢物語、第九段、東下りの話をもとにして描かれています。

京にいた男が、友人と一緒に東国へ旅をしている途中、三河の国八橋という所に着きます。そこでは川が蜘蛛の手足のように八つに分かれて流れていて橋が八つ渡してあるので、八橋という地名がついたとのことです。沢のほとりの木蔭に座って干し飯(ほしいい)を食べ始めましたが、その沢にはかきつばたが美しく咲いていました。それを見た友人の一人が「かきつばたという五文字を句のはじめにおいて、旅の心を詠んでみては・・。」 と勧めます。そこで

からごろも きつつなれにし つましあれば
はるばるきぬる たびをしぞおもふ

(唐衣の着慣れたように、慣れ親しんだ妻を都に残して来たので、遥々(はるばる)やってきたこの旅を(悲しく)思う)
と詠んだところ、友人達は皆干し飯の上に涙を落とし、干し飯がふやけてしまいました。

この有名な歌は在原業平(ありわらなりひら)の作で古今和歌集に収載されていますが、業平は伊勢物語の主人公で作者とも言われています。

光琳の「八橋図」は、「燕子花図」よりも10年ほど後に描かれたそうですが、戦後まもなくメトロポリタン美術館に買い上げられ海外流出してしまいました。昨春、根津美術館において「八橋図」をメトロポリタン美術館から借り受け「燕子花図」と並べて鑑賞する展覧会、KORIN展 国宝「燕子花図」とメトロポリタン美術館所蔵「八橋図」が開かれたそうです。さぞかし壮観だったでしょうね。

今月は、話がずいぶん長くなり、写真や図も多く、お読みいただくのも大変だったことと思います。すみません。どれかを切り捨てて短くしようと思ったのですが、どれも捨てるには忍びなくそのまま残してしまいました。まさに「いずれアヤメかカキツバタ」ですね。

燕子花図 左隻


燕子花図 右隻

八橋図 左隻


八橋図 右隻

燕子花図は根津美術館、八橋図はメトロポリタン美術館の所蔵品であり、著作権は、各美術館に帰属しています。
無断複製や転用はおやめください。
今回は、特別な許可を得て掲載させて頂いております。
(根津美術館 HP   
メトロポリタン美術館 HP

さる6月24日、三重県庁において県歯科医師会と県がん診療連携協議会(県内のがん診療連携拠点病院やがん診療連携推進病院で作るがん診療に関する医療ネットワーク:12病院が参加)さらに三重県も加わって、がん患者の口腔ケアや歯科治療を連携して進める協定の調印式が行われました。がん患者さんにとって、口腔内をケアし、常に清潔に保っておくことはきわめて大切なことです。手術を受ける前には虫歯や歯周病などの治療が行われますが、そうすることにより手術後の口腔内細菌による感染症を予防し、回復を順調にすることができます。抗がん剤や放射線治療を行いますと口腔粘膜に炎症を起こしてしばしば口内炎を併発します。すると水分や食事の摂取が困難となり体力が低下するため、治療の継続が困難となることがあります。また口内炎を起こしますと、口腔内で細菌が増殖し、それを誤って肺へ飲み込むことにより誤嚥性(ごえんせい)肺炎を引き起こし生死にも関わる重大事となります。また虫歯や歯周病は、糖尿病や心筋梗塞の発症にも関連すると云われています。本院では今年5月、口腔外科外来の中に口腔ケアセンターを設置しました。野村城二先生をセンター長として、院内はもとより近隣の医療機関で治療を受けておられるがん患者さんを中心に口腔ケアを行っています。

今回の県歯科医師会と県がん診療連携協議会との協定は、がん患者さんの口腔ケアを県内の医療機関や歯科診療所などが協力し一体となって行おうとするもので、非常に意義深いものがあります。このような取り組みを全県的に展開しようとしている自治体は、全国的にみても珍しいそうです。今後はさらに参加医療機関や歯科診療所の数を増やして県内全域に拡げ、がん患者さん以外の糖尿病や成人病などの患者さんの口腔ケアも行っていきたいと願っています。

竹田 寛
イラスト  竹田恭子